日本軍は日露戦争でも、日本軍の戦死者よりも先にロシア軍の戦死者を祀っています。支那事変でも、敵兵の戦死者を祀ることを忘れませんでした。何よりも東京大空襲に来て墜落して亡くなったパイロットをも祀っています。
中東に近いロシア西側に、ウズベキスタンという国があります。
そのウズベキスタンの首都都タシケント市に“国立ナポイ劇場”があります。
この建物は、戦後間もない1948年に、約2年の月日をかけて完成したものです。
この建物は、タシケント市に訪れた2度の大地震にもビクともせず燦然と建っています。
実は、この建物は日本人のシベリア抑留者が造った建物です。
地元のウズベク人達はシベリア抑留者たちを、「戦いに敗れても日本人は誇りを失うことなく骨身を惜しまず働いて立派な仕事を残した。素晴らしい民族だ」と称賛します。
捕虜と言う名の奴隷の様な状態で連れられて行った日本人抑留者達は、現在においてもウズベキスタンで母親たちは子供達に「日本人の様になりなさい」と教えていると言います。
ロシアに抑留された日本人は全部で65万人と言われています。
戦後、ソ連が理想郷とされたのは、この日本人を主力とした抑留者たちが無給でソ連の為に働かされたからに他なりません。
彼らが命を削って働かされたから、ロシア人はほとんど働かずに国から給料を貰い豊かに暮らすことが出来たのです。
人々が働かなくても、町のインフラは次々と整い、道路ができ、鉄道がひかれ、建物ができる。
あらゆる工業生産物も、生まれる。
農業も振興され、食料生産高も飛躍的に向上する。
人々が「働かなくても」です。
未だに、その理由を理解せず、日本にも社会主義に傾倒する50代、60代の人は多いですが・・・。
国立ナポイ劇場のあるタシケント市連れて行かれた日本人は2万5千人です。
運河や炭鉱などの建設や、発電所、学校などの公共施設の建築などの強制労働につかされ、過酷な気候条件と厳しい収容所生活で、栄養失調や病気、事故などで、合計813人の日本人がこの地で亡くなられています。
ウズベキスタンの市民たちは、劇場が建設された当時のことをよく覚えているといいます。
日本人たちが、捕虜なのにどうしてあそこまで丁寧な仕事をするのか、真面目に働くのか不思議がったといいます。
苛酷に働かされた工事でも、決して手抜きをせずまじめに仕上げてしまう日本人。
栄養失調でボロボロの体になりながらも、愚痴も文句も言わないどころか、明るい笑顔さえあった日本人。
昨日、具合悪そうだったけれど、笑顔を向けてくれた日本人が、今日は来ていない。
どうしたのかというと、昨夜栄養失調で死んだという。
それほどまでに過酷な情況にあってなお、きちんとした仕事をしてくれた日本人。
だから、前述した様に今でもウズベキスタンの母たちは子供に「日本人のようになりなさい」と教えているといいます。
ウズベキの人たちは、当時抑留されていた日本人たちの姿を見て、「日本人の捕虜は正々堂々としていた。ドイツ人捕虜が待遇改善を叫んでいたのに対して、彼らは戦いに敗れても日本のサムライの精神をもっていた。強制労働でも粛々と作業につく姿を見て、我々市民は彼らに何度か食料を運んだのです。」と仰っています。
そんな日本人捕虜たちに、ウズベキスタンの人達も誠意で答えます。
ウズベキスタンに抑留者たちの日本人墓地があります。
聞くと、旧ソ連時代、日本人の墓など作ってはならない、墓はあばいて、遺体は捨てろ、という命令もあったのだそうです。
それでも、ウズベクの人たちは、ひっそりと日本人の墓を護りぬいてくれた。
それは、日本人が作ってくれた建物や発電所などが、いまでもウズベクの人々の生活をささえてくれてることへの、せめてもの恩返しだったのだといいます。
そして、ソ連の崩壊で独立したウズベキスタンでは、大統領が自ら進んで壮麗なナポイ劇場に、日本人抑留者の功績を記したプレートを掲げてくれています。
そこには、ウズベク語、日本語、英語でこう書かれています。
「1945年から46年にかけて極東から強制移住させられた数百人の日本人がこの劇場の建設に参加し、その完成に貢献した」
この知らせを受けた中山成彬元国土交通大臣は、みんなの力で、ウズベクの日本人墓地の整備をしようと、呼びかけます。
中山議員の宮崎県を中心に寄付金が集まり、ウズベキスタンにお墓の整備を申し出ます。
すると、ウズベキスタンの大統領はこれを拒否し、「亡くなられた日本人に、わたしたちは心から感謝しているのです。このお金は受け取れません。わたしたちで、日本人のお墓の整備をさせてください。」と仰って下さり、日本人墓地を美しい公園墓地にし、日本人を顕彰します。
(寄付金は、ウズベキスタンの学校に教育機材を提供する為につかった。)
中山議員は、「きっと生きて祖国に帰りたかったであろう人たちに、せめて、日本の桜を毎年、ずっと見せてあげたい。」と考え、余った寄付金で桜の木を贈り、日本の土も一緒に運び込みました。
いま、ウズベクの日本人墓地と、中央公園には、日本から寄贈された1,900本の桜の木が、毎年美しい花を咲かせています。
戦時中の日本人はどの様な環境であれ、日本人らしい生き方を最後まで貫いた民族です。
多くのプロパカンダに負けることなく、日本人として先人に負けないくらい胸を張って生きていきたいものです。