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戦争時の日本人の真心を知れ!

日本軍は敵に対しても敬意を忘れなかった!

日本軍は日露戦争でも、日本軍の戦死者よりも先にロシア軍の戦死者を祀っています。支那事変でも、敵兵の戦死者を祀ることを忘れませんでした。何よりも東京大空襲に来て墜落して亡くなったパイロットをも祀っています。




ギャラリー



現地人の死傷者がゼロだったペリリュー島の戦い敵国の死者を弔う日本人の伝統

パラオ共和国は当時日本の委任統治領でした。

ペリリュー島とは、パラオ諸島のの中の小さな島です。その島で大東亜戦争末期、日米両軍によって73日間の死闘が繰り広げられました。

当時、ペリリュー島に東洋最大と言われる飛行場が建設されており、ペリリュー島はフィリピン防衛の要の島でした。

1943年、米軍は、アメリカ太平洋艦隊司令長官、連合軍中部太平洋方面の陸海空3軍の最高司令官であるチェスター・ニミッツ提督の指揮下、このパラオ・ペリリュー島の攻略作戦を計画します。

当時、ペリリュー島には、899名の島民がいました。
島民たちは、白人統治の時代を知っています。

日本兵と仲良くなって、日本の歌を一緒に歌っていた島民たちは、集会を開きました。
そして全会一致で彼らは、大人も子供も一緒になって日本軍とともにアメリカ軍と「戦おう」と決めました。

パラオの村民の会議は、古来からの習慣で村人全員が参加します。
話し合いは全員がひとり残らず納得するまで、何日でも続けて行われます。つまり全員が日本軍と共にアメリカ軍と戦うことを決心したのです。

全員一致で「日本軍とともに戦う」と決めた彼らは、代表数人で日本軍の守備隊長のもとに向かいました。

当時のペリュリューの守備隊長は、中川州男(なかがわくにお)陸軍中将(任期当時は大佐)です。
中川大佐がペリリュー島に赴任したのは1943年で、日本を出る時、奥さんに「今度はどちらの任地に行かれるのですか?」と聞かれた中川中将は、にっこり笑って「永劫演習さ」とだけ答えられたそうです。
「永劫演習」というのは、生きて帰還が望めない戦場という意味です。

そういう中川隊長なら、パラオの島民たちが、自分たちの頼み「一緒に戦うこと」をきっと喜んで受け入れてくれるに違いない。
ただでさえ、日本の兵隊さんたちは兵力が足りないのだから。

ペリュリューの村人たちは、そう思い、中川中将のもとを尋ねたのです。そして中川中将に、「わたしたちも一緒に、戦わせてください!」と強く申し出ました。
「村人全員が集まって、決めたんです。これは村人たち全員の総意です。」

中川隊長は、真剣に訴える彼らひとりひとりの眼を、じっと見つめながら黙って聞いておられたそうです。

一同の話が終わり、場に、沈黙が訪れました。

しばしの沈黙の後です。

中川隊長は、突然、驚くような大声をあげました。

「帝国軍人が、貴様ら土人と一緒に戦えるかっ!」

烈迫の気合です。

村の代表たちは、瞬間、何を言われたかわからなかったそうです。
耳を疑った。

そのときは、ただ茫然としてしまいした。
指揮所を出てからの帰り道、彼らは泣いたそうです。断られたからではありません。土人と呼ばれたことがショックでした。怒りではありません。 あんなに仲良くしていたのに、という悲しみの方が大きかった。

日頃から、日本人は、自分たちのことを、仲間だと言ってくれていたのに、同じ人間だ、同じ人だ、俺たちは対等だと言ってくれていたのに。それが「土人?」信じていたのに。それはみせかけだったの?

集会所で待っている村人たちに報告しました。
みんな「日本人に裏切られた」という思いでした。ただただ悲しくて、悔しくて。みんな泣いてしまいました。

何日がが経ちました。
いよいよ日本軍が用意した船で、パラオ本島に向かって島を去る日がやってきました。
港には、日本兵はひとりも、見送りに来ません。島民たちは、悄然として船に乗り込みます。

島を去ることも悲しかったけれど、それ以上に、仲間と思っていた日本人に裏切られたという思いが、ただただ悲しかったのです。

汽笛が鳴りました。船がゆっくりと、岸辺を離れはじめました。

次の瞬間です。
島から「おおおおおおおおおおお」という声があがりました。島に残る日本兵全員が、ジャングルの中から、浜に走り出てきたのです。
そして一緒に歌った日本の歌を歌いながら、ちぎれるほどに手を振って彼らを見送ってくれたのです。

そのとき、船上にあった島民たちには、はっきりとわかりました。
日本の軍人さん達は、我々村人を戦火に巻き込んではいけないと配慮したのだ、と。
そのために、心を鬼にして、あえて「土人」という言葉を使ったのだと。

船の上にいる島民の全員の目から、涙があふれました。
そして、岸辺に見える日本兵に向かって、島の人たちは、なにか、自分でもわからない声をあげながら、涙でかすむ目を必死にあけて、ちぎれるほど手を振りました。
船の上から、ひとりひとりの日に焼けた日本人の兵隊さんたちの姿が見えました。誰もが笑っています。歌声が聞こえます。そこには中川隊長の姿もありました。他のみんなと一緒に笑いながら、手を振ってくれていたそうです。素敵な笑顔だったそうです。

当時の人は、その笑顔が、ずっとまぶたに焼き付いていたといいます。



1944年、ペリリュー島の戦いが始まります。日本軍10,500名、米軍総員48,740名です。

開始のその日から補給を断たれた日本軍の数百倍の火力をペリリュー島に投下し、「2,3日で陥落させられる」との宣言の下、海兵隊を主力とす第1陣28,000人のアメリカ軍が島に上陸を始めます。

その時です。日本軍の反撃が始まり、米軍の第一次上陸部隊は大損害を被り、一時退却をしています。
この戦闘で米軍の血で赤く染まった海岸は今でも「オレンジビーチ」と呼ばれています。

1か月半後には、米軍第1海兵師団が全滅しています。
米軍の司令官は心労から心臓発作を起こし、後方に送られています。

さらに、1か月後に、兵力弾薬も底を尽き、司令部は玉砕を決定します。
中川州男隊長、村井権治郎少将、飯田義栄中佐が、この日、司令部で割腹自決を遂げます。
その後に、玉砕を伝える「サクラサクラ」の電文が本土に送られました。

そして翌朝にかけて、根本甲子郎大尉を中心とした55名が、最後の突撃攻撃を敢行しました。こうして11月27日、ペリリュー島は、ついに陥落したのです。

水も食料も補給が全くない状態で、3日で終わるとされた戦闘は実に2か月半経過していました。

戦闘後、散らばる日本兵の遺体をしばらく経って戻ってきた島民たちがひとつひとつ、きれいに片付け、埋葬してくれています。

また、戦闘終結後も生き残りの日本兵34人が洞窟を転々として生き延び、終戦の2年後まで戦い続け、1947年に投降しています。

日本軍の戦死者10,695名・捕虜202名。米軍の戦死者2,336名・戦傷者8,450名、島民の死者・負傷者0名。

チェスター・ウィリアム・ニミッツ
(ペリリュー島の戦いの敵将である司令官)
「ペリリューの複雑極まる防備に打ち勝つには、米国の歴史における他のどんな上陸戦にも見られない最高の損害比率(約四十パーセント の損害=米海兵師団の第一連隊を全滅させた)を出した。すでに制空権をとっていた米軍が、死傷者あわせて一万人を超える犠牲者を出し て、この島を占領したことは、今もって疑問である」と仰っています。

また、ペリリュー島にある「ペリリュー神社」にある石碑に
「諸国から訪れる旅人たちよこの島を守るために日本軍人がいかに勇敢な愛国心をもって戦い そして玉砕したかを伝えられよ。
米太平洋艦隊司令長官 C.W. ニミッツ」
という文を残しています。
パラオ独立記念の歌
(ペリリュー島の戦いを歌っています)
一 激しく弾雨(たま)が降り注ぎ
  オレンジ浜を血で染めた
  つわものたちはみな散って
  ペ島はすべて墓(はか)となる
  (注:ペ島=ペリュリュー島のこと)

二 小さな異国のこの島を
  死んでも守ると誓いつつ
  山なす敵を迎え撃ち
  弾射ち尽くし食糧もない

三 兵士は桜を叫ぴつつ
  これが最期の伝えごと
  父母よ祖国よ妻や子よ
  別れの”桜"に意味深し

四 日本の”桜"は春いちど
  見事に咲いて明日は散る
  ペ島の”桜"は散り散りに
  玉砕れども勲功はとこしえに

五 今もののふの姿なく
  残りし洞窟の夢の跡
  古いペ島の習慣で
  我等勇士の霊魂守る 

六 平和と自由の尊さを
  身をこなにしてこの島に
  教えて散りし"桜花"
  今では平和が甦る

七 どうぞ再びペリリューヘ
  時なしさくらの花びらは
  椰子の木陰で待ちわびし
  あつい涙がこみあげる  

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