日本軍は日露戦争でも、日本軍の戦死者よりも先にロシア軍の戦死者を祀っています。支那事変でも、敵兵の戦死者を祀ることを忘れませんでした。何よりも東京大空襲に来て墜落して亡くなったパイロットをも祀っています。
1281年、対馬と壱岐を攻め尽くした2度目の元の大軍が博多に来襲します。
世に言う元寇です。
鎌倉幕府の北条時宗は西国の御家人を中心に元軍を迎え撃ち、見事にこれを撃退することに成功します。
撃退された元軍は船に戻って撤退するのですが、それに追い打ちをかけるように玄界灘は暴風雨となり、多くの船が沈没してしまいます。
翌日、志賀島に元軍の船が座礁しており、元軍120人を討ち取ります。
しかし、敵兵とは言え、亡くなれば敵味方がなくなるのが、日本の伝統です。
ここに1928年に元軍の死者を弔うため蒙古塚が建てられます。
大陸の兵士と言えば、残虐性で言えば日本からは想像もつかないものです。
戦前の通州事件や尼港事件、終戦直後の半島人や支那人の残酷さを考えれば、当時もどのようだったか考えたくもないくらいです。
元軍は対馬や壱岐の人々を、「島民の男達を殺したり生取(いけどり)にし、女達を取り集めて、手掌を通して船に結び付け生取りにした。一人として助かる者は無かった。」とあります。
幼児・赤子に至るまで皆殺しにされた上、耳鼻を削がれたとのことです(連れ去られた捕虜も全員殺された)。
この手の平に穴を開けて、そこへ縄を通すやり方は朝鮮半島において古来より続く伝統行為と記されています。
この時の元軍・高句麗軍の残虐性は、今も日本人の心の底に深い傷跡を残しており、東北の方でも子供を泣き止ます時に「モッコが来た」、「蒙古が来た」と言うそうです。
壱岐、対馬では、「ムクリ、コクリの鬼が来る」と言うと、泣く子も 止むそうです。特にコクリ(高麗兵)が残虐だったと、史書に記されています。
無慈悲で残酷なことを「むごい」と言いますが、これも元寇にまつわるものです。
また、元寇が襲来した地域の地名には、首除・伊野利(祈り)の浜・刀の元・供養の元・地獄谷・血崎・血浦・胴代・鬼塚・ 遠矢の原等々恐ろしい名前が残っています。
弘安の役には、博多で多くの市民が殺され、家を焼かれています。
そんな残虐な限りを尽くした元軍に対しても、日本人は弔い、決して死者を冒涜することはしません。
志賀島以外にも、博多周辺には蒙古塚や首塚と呼ばれる場所が多数残っています。