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戦争時の日本人の真心を知れ!

日本軍は敵に対しても敬意を忘れなかった!

日本軍は日露戦争でも、日本軍の戦死者よりも先にロシア軍の戦死者を祀っています。支那事変でも、敵兵の戦死者を祀ることを忘れませんでした。何よりも東京大空襲に来て墜落して亡くなったパイロットをも祀っています。




ギャラリー



東京を焼け野原にして墜落したパイロットを弔った日本人達敵将・ルーズベルト大統領が亡くなった時に哀悼の意を送った鈴木貫太郎首相

静岡市葵区の賤機山山頂に、観音像が建てられています。
この観音像は、米国の空襲により亡くなった方々を慰霊するためのものです。

そして、その観音像の隣に、石碑が建てられています。
これは、空中衝突して墜落死したB29爆撃機の搭乗員を弔うものです。


静岡市の観音像

また和歌山県田辺市にも1945年5月5日にB29が墜落しており、搭乗兵11人の内、7人が死亡。
和歌山県の人達は、空襲に来て多くの日本人を焼き殺していった敵国の兵士だったにも関わらず、事故現場から遺体を探して埋葬し、
戦争中に慰霊祭を開いている。
慰霊祭は戦後も続き、70回を超えています。

そして、田辺市に墜落して生き残った4人は周辺で捕えられます。
村人たちはパイロットたちに同情的だったと言います。

竹槍をもって迫る村人もいたそうですが、突くことはなく、
おにぎりとたくわんを与えたそうです
「恨みもあったはずだが、みんなが戦争に疲れていた。米兵の姿を見て、戦地に赴いた家族の姿を重ね合わせた。哀れみの方が強かったんでしょう」と現地の人はおっしゃっているそうです。


和歌山県田辺市の慰霊祭


また、群馬県邑楽町の清岩寺でも墜落兵の慰霊碑があります。
墜落機からはい出した瀕死の米兵を見て、「鬼と教わった米兵も同じ人間だった。
大切に思う人のためにも彼らの魂を弔いたい。」という思いがきっかけになっています。

墜落したパイロットを弔い、寺で埋葬します。
そして戦争が終わると、米国当局に連絡を取り遺骨を渡し、亡くなられたパイロットたちは米国で埋葬することが出来ています。

慰霊碑は戦後60年経ってから、町で寄付金を募り建てたものです。



東京都東村山市にも墜落して亡くなったB29のパイロットを弔い、墜落現場に平和観音像が建てられています。
墜落して亡くなった11人の遺体を埋葬し、戦後、米軍関係者が遺骨を引き取っていきました。
観音像は、住民の呼びかけに、
当時の東村山町などが協力して建てられたものです。

こういった慰霊碑は日本中いたるところにあります。

これは、日本本土のB29だけに限らず、アリューシャン列島にて米軍の戦闘機が日本軍に撃ち落されパイロットが亡くなった際に、遺体を発見した日本兵は、パイロットの亡骸を埋葬し、碑文を立てています。
自らの若くも輝かしい時間を、愛する祖国の為に捧げた英雄・・・ここに眠る・・・


アリューシャン列島の碑文

ビックリすることにこれらの慰霊碑の多くが、戦後でなく戦時中に建てられたものです。
つまり、家を焼かれ、身内を焼き殺された直後に、その実行犯を祀っているのです。

これは大東亜戦争だけで起きた行為ではなく、日露戦争や支那事変、古くは元寇の頃から続く日本人の伝統的な思想です。

亡くなられたB29のパイロットは、それぞれがその町を爆撃しに来た人達です。
しかも、軍事施設でなく、多くの民間人が犠牲になるように、木の家を焼く為の焼夷弾という爆弾を落とし、多くの日本人達を焼き殺して来た人です。

しかし、その人達にも家族がいて、帰りを待っている人達がいます。
そして敵国とはいえ、祖国の為に命をかけた人を敬う文化があります。

憎いのは米兵でなく戦争そのものであり、人が亡くなったら弔うのが当然の行為だと思う文化が日本にはあります。

例え敵であっても相手を辱めることはせず、相手の名誉を重んじる精神があります。

当時の日本人は、国や宗教に関係なく、一人の人間として米兵と向き合ったということを、今生きる日本人達は忘れてはいけないし、もっと多くの人達に伝えて欲しいと思っています。




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