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戦争時の日本人の真心を知れ!

日本軍は敵に対しても敬意を忘れなかった!

日本軍は日露戦争でも、日本軍の戦死者よりも先にロシア軍の戦死者を祀っています。支那事変でも、敵兵の戦死者を祀ることを忘れませんでした。何よりも東京大空襲に来て墜落して亡くなったパイロットをも祀っています。




ギャラリー



東洋のシンドラーと呼ばれる杉原千畝敵国の死者を弔う日本人の伝統

杉原千畝は「東洋のシンドラー」と呼ばれ、多くのユダヤ人を救ったことで有名ですが、オスカー・シンドラーが救ったユダヤ人が1,200人と言われているのに対して、杉原千畝が救ったとされるユダヤ人は6,000人と言われています。

個人的にはオスカー・シンドラーが「西欧の杉原」と呼ばれても良い気がしています。

杉原千畝は第二次世界大戦中、リトアニアの領事館に赴任していました。

千畝がリトアニアに赴任された頃、ナチス・ドイツのユダヤ人迫害によって極東に向かう避難民が増えてきていました。

日本は経済的余裕が無かった為、ユダヤ人に限らず避難民の受け入れを拒否している状態でした。

しかし、ドイツによるユダヤ人迫害から逃げようとするユダヤ人は多く、オランダの領事館などはユダヤ人が逃げれるようにオランダ領へのビザを発行していたのですが、数が全然足りない状態でした。

ユダヤ人がドイツから逃げる先は西ヨーロッパにはドイツ軍が侵攻していくるので不可能であり、南側のトルコ政府などはビザ発給を拒否するようになってきていました。

ユダヤ人がドイツの迫害から逃げることが出来るのは、シベリア鉄道を経て、極東に向かうルートしかありませんでした。

その為、ドイツ占領下のポーランドからリトアニアに逃亡してきた大量のユダヤ人たちは、シベリア鉄道から国外に逃げる為に各国の大使館や領事館に殺到して来ていました。

しかし、そのリトアニアもソ連に占領されており、ソ連が各国に在リトアニア領事館・大使館の閉鎖を求めた為、ユダヤ人は迫害から逃げることが出来ない状態になってきていました。

その状態でまだ業務を続けていた日本領事館にオランダ領アンティルなどへの通過ビザを求めて、ユダヤ人が殺到します。

千畝はその時の状況をこう回顧しています。
『6時少し前。表通りに面した領事公邸の寝室の窓際が、突然人だかりの喧しい話し声で騒がしくなり、意味の分からぬわめき声は人だかりの人数が増えるためか、次第に高く激しくなってゆく。で、私は急ぎカーテンの端の隙間から外をうかがうに、なんと、これはヨレヨレの服装をした老若男女で、いろいろの人相の人々が、ザッと100人も公邸の鉄柵に寄り掛かって、こちらに向かって何かを訴えている光景が眼に映った』

リトアニアの日本領事館は、東欧の情報収集と独ソ戦争の時期の特定の為にあった為、それ以外のビザ発給などの業務は日本本国の了解を得ていなかった。

しかも、ドイツと敵対していたオランダなどと違い、日本はドイツと同盟締結を控えている状態でもありました。

千畝は、日本本国にビザ発給の許可を得ようと打診すると、日本政府からは「行先国の入国許可手続を完了し、旅費及び本邦滞在費等の携帯金を有する者にのみに査証を発給せよ」との返事がありました。

しかし、千畝はパスポートを持たないようなものであっても、領事館の権限でビザを発給することを決めます。

千畝の妻も「あとで、私たちはどうなるか分かりませんけど、そうして上げて下さい」と同意して、「人道上、どうしても拒否できない」という理由で、受給要件を満たしていない者に対しても独断で通過査証を発給し続けます。

千畝はビザをすべてのユダヤ人に大量に発給し続けた為、日本の神戸などから「旅費を持っていなかったり、アメリカ・カナダなどへの行き先への手続きが住んでいなかったりと処理に困る」ので、これ以上ビザを発給しないように求められます。

しかし、千畝は「外務省から罷免されるのは避けられない」と予期していましたが、「人道的感情と人間への愛」から、ビザを発給し続けます。

一時に多量のビザを手書きして万年筆が折れ、ペンにインクをつけては査証を認める日々が続くと、一日が終わり「ぐったり疲れて、そのままベッドに倒れ込む」状態になり、さらに「痛くなって動かなくなった腕」を夫人がマッサージしなくてはならない事態にまで陥ります。

ソ連政府や本国から再三の退去命令を受けながら一カ月余寝る間も惜しんでビザを書き続けた千畝は、本省からのベルリンへの異動命令が無視できなくなると、領事館内すべての重要書類を焼却し、家族と共に今日まで残る老舗ホテル「メトロポリス」に移ります。

千畝はホテル内でも仮通行書を発給し続け、ベルリンから出る電車の中でも電車が発車する直前までビザを発給し続けます。

汽車が走り出し、もうビザを書くことができなくなって、「許して下さい、私にはもう書けない。みなさんのご無事を祈っています」と千畝が頭を下げると、「スギハァラ。私たちはあなたを忘れません。もう一度あなたにお会いしますよ」という叫び声があがり、そして「列車と並んで泣きながら走っている人」が、千畝たちの「姿が見えなくなるまで何度も叫び続けて」いたと言います。

千畝は最後の数日は、作業を減らしビザをなるべく多く書く為に、ビザ発給者の記録をつけることをやめて、さらには規定の手数料を徴収することも辞めていました。

なので、ビザ発給者の総数は把握出来ないが、千畝の出したビザは「命のビザ」と呼ばれ、発給者の家族を含めて少なく見ても数千人はユダヤ人の国外脱出を助けたと言われています。

ちなみに杉原のビザを受け取り、シベリア鉄道でロシアのウラジオストクに到着したユダヤ人難民が、大量に日本に来ることに困惑した日本政府は「アメリカやカナダへの行先国に入る手続きが終わっていることを証明する書類を提出させてから、日本に来る許可を与えること」とウラジオストクの日本領事館に厳命しています。

しかし、ウラジオストク総領事代理・根井三郎は、難民たちの窮状に同情し一度杉原領事が発行したビザを無効にする理由がないと抗議し事なきを得ています。そのやりとりは5回にも及び、難民たちから「ミスター・ネイ」の名で記憶されている根井三郎は、本来漁業関係者にしか出せない日本行きの乗船許可証を発給して難民の救済にあたっています。






ユダヤ人へのビザ発給条件を守るように再三通達した張本人である松岡外務大臣は、外務大臣という立場上そうしたが、ユダヤ人に対して民族的偏見を持っていなかった。

松岡外相は日本に来たユダヤ人たちの窮状を知ると、「避難民が入国するまでは外務省の管轄であるが、一度入国後は内務省警保局外事部に管轄が変わり、滞在延期については各地方長官の権限に委ねられている」として、ユダヤ人難民の日本滞在許可期間を大幅に伸ばしたりしている。

リトアニアを退去した千畝は、その後当時ドイツの保護領になっていたチェコスロヴァキアのプラハの日本総領事館に勤務。1941年(昭和16年)には、東プロイセンの在ケーニヒスベルク総領事館に赴任しています。

日本帰国後の1947年6月に「命のビザ」の件で退職通告書が送付され、6月7日に外務省を依願退職しています。

そして、1968年「杉原ビザ」受給者の一人で、新生イスラエルの参事官となっていたニシュリ (B. Gehashra Nishri) と28年ぶりに大使館で再会。

カウナス駅頭で「スギハァラ。私たちはあなたを忘れません。もう一度あなたにお会いしますよ」と叫んだかつての青年は、杉原夫人の手をとり固く握って涙を流して喜んだ。

1969年にはイスラエルの宗教大臣となっていたゾラフ・バルハフティクとエルサレムで29年ぶりに再会。

この時初めて、今日誰でも閲覧できる本省との電信のやりとりが明かされ、失職覚悟での千畝の独断によるビザ発給を知ったバルハフティクが驚愕することになります。

後のインタビューで、バルハフティクはこう語っています。

『実際には、日本政府の許可なしであったことを私たちが知ったのは、1969年に杉原氏とイスラエルで再会した時である。杉原氏が訓命に背いてまで、ビザを出し続けてくれたなんてことは、再会するまで考えられなかったので、とても驚いたことを覚えている。杉原氏の免官は疑問である。日本政府がすばらしい方に対して何もしていないことに疑問を感じる。賞を出していないのはおかしい。表彰していないのは残念である。杉原氏を支持している方は多くいるが、私は20年前から、日本政府は正式な形で杉原氏の名誉を回復すべきだといっている。しかし日本政府は何もしていない。大変残念なことである。』

1985年1月18日、千畝はイスラエル政府より、多くのユダヤ人の命を救出した功績で日本人では初で唯一の「諸国民の中の正義の人」として「ヤド・バシェム賞」を受賞。

しかし、日本において名誉が回復されないまま1986年7月にその生涯を閉じます。

千畝の死去から遅れること14年後の2000年に、日本において初めて公式に千畝の名誉が回復された。

ユダヤ人も恩を忘れておらず、2011年の東日本大震災の際には杉原千畝の功績を表に出し、国のユダヤ人組織オーソドックス・ユニオンなどが義援金を募り多くの寄付が寄せられたりしています。

また、リトアニアからは杉原千畝への恩を忘れないとの思いから、アメリカのリトアニア人居住地区から、東日本大震災で秦野市内に避難している子供たちに対し、クリスマスプレゼントとして、ノートとクレヨンが寄付されています。

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