日本軍は日露戦争でも、日本軍の戦死者よりも先にロシア軍の戦死者を祀っています。支那事変でも、敵兵の戦死者を祀ることを忘れませんでした。何よりも東京大空襲に来て墜落して亡くなったパイロットをも祀っています。
和歌山県の高野山には弘法大師霊廟があります。そこに通ずる道を進めば、すぐ左側に五つの塔が見えます。
中央に建つのが「日本建国以来各戦役関係戦病死者供養塔」であり、それを囲んで次の4つの供養塔が立っています。
1つ目は「日清両国戦病死者供養塔(日清戦争)」、2つ目は「日露両国戦病死者供養塔(日露戦争)」、3つ目は「世界大戦〈第一次世界大戦)関係諸国戦病死者供養塔」、4つ目は「日満支三国戦病死者供養塔(満洲・上海両事変)」です。
これらは、支那事変前に建てられたことが分かっています。敵味方を超えて戦死者を祀る日本人の伝統でもあります。
外国の敵を弔う例は、元寇の時にもありました。文永・弘安に及ぶ2度の元寇が終わると、1282年に北条時宗は鎌倉に円覚寺を建て、水没した10万の元軍の死者のために1千体の地蔵尊を作って奉納しています。
豊臣秀吉の文禄・慶長の役でも、各地で敵兵の屍を埋めて弔っています(朝鮮側の資料である柳成龍の著「懲ひ録」に記されています)。
そこには、「弔朝鮮忠肝義胆」と敵方の兵士を称える碑文を建てて祀っています。
また従軍した島津軍も敵味方の陣歿者を弔う卒塔婆を立て、法要会を行っており、1599年には、高野山の奥の院に『高麗陣敵味方戦死者供養碑』を建立しています。
そして、時代が変わり日露戦争では、1907年にロシア将兵の墓地をつくり、墓地の中央に「慰霊塔」(高さ13メートル)を建立しています。日本側の戦死者の「表忠塔」が建てられる2年以上も前に、敵兵の戦死者を弔っています。
日支事変においても同じです。
当時、日本軍は戦闘が終われば、各地に「支那軍無名戦死者之墓」を建てたといいます(1937年7月7日 朝日新聞)。
大東亜戦争では、ジョホールバルの東のシェマールアンで日本軍と戦ったオーストラリア軍の死者に対して、墓地を作りその上に、『私たちの勇敢な敵オーストラリア兵士のために』と書かれた大きな十字架を建てて弔ったことがシンガポールの中学2年生の教科書に書かれています。
日本軍の方が死者が多かったのにも関わらずです。
司令官だったマレーの虎・山下奉文は、英兵の遺体を見ると必ず挙手の礼をしていたといいます。
文章や写真で残っている話だけでも沢山ありますが、こういった行為は当たり前のようにあったと言われています。
これは陸軍だけでなく、海軍でも英国戦艦プリンスーオブ・ウェールズとレパルスを轟沈させた際に、指揮官の壱岐春記大尉は、愛機を現地まで飛ばして勇敢に戦った英国将兵のために花束を投下したと言われています。
支那や朝鮮人に語らせると、戦時中の日本人は野蛮で残虐だったと言います。
しかし、虐殺の有ったと呼ばれる場所では、普通はその3倍以上の手のない人や足のない人といった障害者が残るものです。
レイプが有ったと言われる場所では、大量の堕胎の記録か混血児の問題が必ず起こるものですが、日本軍の統治下ではそのいずれも発生していません。
東日本大震災や阪神淡路大震災でも世界で絶賛されましたが、日本人の極限においても決して取り乱すことない民度は、戦時中においても同じだったと思わざるを得ません。
支那や朝鮮のプロパカンダに負けることなく、ご先祖様の偉大な功績を色々な角度から見て行って欲しいと思っています。