日本軍は日露戦争でも、日本軍の戦死者よりも先にロシア軍の戦死者を祀っています。支那事変でも、敵兵の戦死者を祀ることを忘れませんでした。何よりも東京大空襲に来て墜落して亡くなったパイロットをも祀っています。
戦争の最中に、敵国支那が砂と黄土の大地であることに心を痛め、植樹をすることで支那の大地を緑でいっぱいにしようとした日本人がいました。
名前は吉松喜三という佐賀県生まれで、終戦時は陸軍大佐でした。
吉松大佐は、支那事変が開始されてすぐの1940年に、戦闘中に腹部を負傷し、後方の野戦病院に送られ、療養することになります。
その際に病院のベッドであるひらめきが起きます。
その後1943年に機動歩兵第三連隊長に就任した吉松大佐は、そのひらめきを、連隊のみんなに伝えます。
「支那は、際限のない砂と黄土の大地だ。その大地を、戦争はさらに破壊する。けれど自分たちは、興亜を願う皇軍兵士だ。日本軍の通ったあとに、草木も枯れるなどと言われるようなことはあってはならないのではないか。そうだ。緑だ。緑の木こそ人の心を安らかにする。みんなで植樹をしよう。自分は、植樹によって荒んだ兵隊達の心に安らぎを与えたい。そして散華した敵味方の将兵の御霊を弔いたいのだ。樹木の少ない支那の地に、沢山の苗木を植えて繁らせて、住民を喜ばせようではないか。」
各隊ごとの目標も決まりました。
「各大隊ごとに50万本の植樹をする」というものです。
1大隊が約1,000人なので、1人あたり500本の植樹をするという壮大な計画です。
第三連隊はサラチ郊外の駅近くで、早々に50万本の植樹を達成します。
第一大隊はこれを記念して、ここに「興亜植樹の森記念の石碑」を建てます。
モンゴルに近い包頭(ほうとう)市では、現地の支那人のために、連隊で興亜植樹公園を築き、桜とポプラの苗木を1万本植え、小さな富士山と池、そして子供達の為に小さな動物園も作ってあげます。
第三連隊の戦闘は毎日起こっています。
吉松大佐の部隊は戦闘を休むことがあっても、植樹を休んだことは一日もなかったそうです。
そんな中、吉松大佐の第三連隊は河南作戦に転進します。
洛陽の攻略戦は壮絶を極めましたが、終わると同時に植樹を始めます。
日本軍は支那相手には連戦連勝で、吉松大佐の連隊も負け知らずでした。
なので1945年8月15日の日本軍の降伏をどうしても信じることが出来なかったと言います。
戦争が終わり、第三連隊は全員支那軍の捕虜となります。
捕虜となり始めの頃は道路工事などをさせれていましたが、中国共産党から「植樹隊」の編成を命じてきます。
吉松大佐達は、敗戦の日本軍を代表するつもりで植樹を続けました。
そうしてまもなくして、吉松大佐に中国共産党から「感謝状」が届きます。
終戦で戦犯になった元将校の多い中で、敵将から「感謝状」をもらったのは、おそらく第三連隊の吉松喜三大佐ただひとりです。
吉松大佐らが日本に帰国するとき、中国共産党は、先の「感謝状」の他に、建国の父「孫文の肖像画」と、吉松隊長以下、全員が無事に日本に帰国できるようにと、専用の通行手形まで出してくれました。
おかげで吉松連隊長とその部下たちは、途中でトラブルに遭うこともなく、全員無事に日本に帰国することができています。