日本軍は日露戦争でも、日本軍の戦死者よりも先にロシア軍の戦死者を祀っています。支那事変でも、敵兵の戦死者を祀ることを忘れませんでした。何よりも東京大空襲に来て墜落して亡くなったパイロットをも祀っています。
第一次世界大戦のドイツ兵の捕虜は4,700人に上り、日本の徳島県鳴門市にある板東俘虜収容所などに収容されました。
板東俘虜収容所では、収容所の所長・松江大佐は「ドイツ人も祖国のために戦ったのだから」と言い、捕虜全員を集めたとき以下のように訓示しています。
「諸君は祖国を遠く離れた孤立無援の青島で、最後まで勇敢に戦ったが、利あらず日本軍に降伏した。私は諸君の立場に同情を禁じえない。諸君は自らの名誉を汚すことなく、秩序ある行動をとってもらいたい」と伝えます。
そして松江大佐は驚くような事をし始めます。
収容所の正門前に80件もの捕虜たちが経営する店を出したのです。
パン工場が作られ、仕立て屋、理髪屋、靴屋、写真館、製本屋、アイスクリームの販売店、家具店などのほか、音楽教室、楽器修理、金属加工や配管工事の店などです。
捕虜収容所の前の土地7,000坪を借り上げて運動場を作り、捕虜たちはサッカー場やテニスコート、バレーコート体操場、ホッケー場などを造成します。
空き地には鶏舎や菜園が作られ、ジャガイモやトマト、キャベツ、玉ねぎなどが栽培されます。収穫物は収容所が買い上げ、捕虜たちの食事として給されました。
その他にも、日本語教室などもあり、見学者の訪問も絶えなかったそうです。
収容所が日独交流会館のような様相を呈していくにつれ、町の人々はドイツ兵捕虜を「ドイツさん」と、親しみを込めて呼ぶようになりました。
ドイツ兵捕虜たちもまた、松江所長への信頼と板東の人々に対する親愛の情を深め、1918年6月1日には、収容所で結成されたヘルマン・ハイゼン楽団によって、ベートーヴェンの交響曲第九番が合唱付きで全曲演奏されました。
日本で初めてベートーベン交響曲第九が演奏されたのはこの板東俘虜収容所です。
やがて停戦協定が結ばれ捕虜は日本を去ることになります。
松江大佐の命令遵守に感謝するという言葉に対し、通訳や日本語講師を務めたクルト・マイスナーはこう答えました。
「あなたが示された寛容と博愛と仁慈の精神を私たちは決して忘れません。そしてもし私たちより更に不幸な人々に会えば、あなたに示された精神で挑むことでしょう。『四方の海みな兄弟なり』という言葉を、私たちはあなたとともに思い出すでしょう」
それから50年のときを経た1972年、多くの元捕虜たちから寄付や資料の提供を受けて「鳴門市ドイツ館」が完成しました。
今では、徳島県の観光名所となっています。