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戦争時の日本人の真心を知れ!

日本軍は敵に対しても敬意を忘れなかった!

日本軍は日露戦争でも、日本軍の戦死者よりも先にロシア軍の戦死者を祀っています。支那事変でも、敵兵の戦死者を祀ることを忘れませんでした。何よりも東京大空襲に来て墜落して亡くなったパイロットをも祀っています。




ギャラリー



日本海軍「雷」の話敵国の死者を弔う日本人の伝統

1998年5月に、天皇皇后両陛下がイギリスを訪問しました。

その際、イギリス女王と馬車に乗り、ロンドンの市民は歓迎を持って迎えてくれたのですが、第二次世界大戦中に日本軍の捕虜になった人たちの一部が日本政府に賠償と天皇陛下に謝罪を要求するという事件が起きました。

イギリス政府は「遺恨が日英関係を支配してはならない」と異例の配慮を見せたのですが、イギリスの国民感情は反日と歓迎とで二分します。

そんな怪しい空気を一掃するような投稿がロンドンのタイムズ紙に掲載されました。

その投稿はイギリスでサーの称号を持つ元イギリス海軍兵士サムエル・フォール卿(当時86歳)からのものでした。

フォール卿は、大戦中のスラバヤ沖開戦で、日本海軍に撃沈された巡洋艦から海に放り出され、漂流中の所を日本海軍「雷」に救助された経験をタイムズ紙に投稿し、敵兵救助を決断した日本の武士道を賛美し、その国の元首を温かく迎えようと国民に呼びかけたのでした。

1942年3月1日に日本海軍に撃沈され、フォール卿を含む422名が海に漂流の身となります。次の日には、忍耐の限界に達し、一部の将校は自決の為の劇薬を服用しようとしていたと言います。

その時、日本の駆逐艦「雷」(乗組員220名)が、漂流している英国乗組員を発見します。

この海域には敵潜水艦が多数徘徊しており、前日も日本の輸送船が攻撃を受けて沈没したばかりで、艦を停止させること自体、自殺行為に等しかったそうです。

しかし、「雷」艦長の工藤俊作少佐(当時)は、敵英国水兵の救助を決断し、艦を停止します。

救助活動を始めたのですが、英国兵は体力の限界に達しており、はしごを自力で登ることすら出来ない状態でした。

工藤艦長はそれを見て、万が一の為にと警戒にあたらせていた要員も救助活動に投入します。

浮遊木材にしがみついていた重傷者が、最後の力を振り絞って「雷」の舷側に泳ぎ着いて、「雷」の乗組員が支える竹竿に触れるや、安堵したのか、ほとんどは力尽きて次々と水面下に沈んでいってしまう。

甲板上の乗組員たちは、涙声をからしながら「頑張れ!」「頑張れ!」と呼びかける。

この光景を見かねて、二番砲塔の斉藤光一等水兵(秋田出身)が、海中に飛び込み、続いて二人がまた飛び込んだ。
立ち泳ぎをしながら、重傷者の体にロープを巻き付けます。

この期に及んで敵も味方もなかった。

フォール卿は、当時の状況をこう回顧しています。
『「雷」が眼前で停止した時、「日本人は残虐」と言う先入観があったため「機銃掃射を受けていよいよ最期を迎える」と頭上をかばうかのように両手を置いてうつむこうとした。

ところが「雷」は、メインマストに「救助活動中」の国際信号旗が掲揚し、ボートを下した。

私はこの瞬間を、夢ではないかと思った。何度も自分の腕をつねった。』

さらに艦上ではサー・フォールを一層感動させる光景が広がります。

日本海軍水兵達が汚物と重油にまみれた英海軍将兵をまったく嫌悪せず、服を脱がせてその身体を丁寧に洗浄し、また艦載の食料被服全てを提供し労います。

戦闘海域における救助活動というのは、下手をすれば敵の攻撃を受け、自艦乗員もろとも自沈します。
実際、そういうケースは多々あります。

だから、そうとう温情あふれる艦長でさえ、ごく僅かの間だけ艦を停止し、自力で艦上に上がれる者だけを救助するのが戦場の常識です。

ところが工藤艦長は違った、
艦を長時間停泊させ、全乗組員を動員して、洋上の遭難兵を救助した。
しかも相手は敵将兵です。

その上、工藤艦長は全甲板に大型の天幕を張らせ、そこに負傷者を休ませます。これで全甲板の主砲は使えなくなっています。

それだけではありません。

工藤艦長は潮流で四散した敵兵を探して終日行動し、例え一人の漂流者を発見しても必ず艦を止め救助した。

戦場の常識ではありえないことです。
そして、422名を救助しています。


救命活動が一段落したとき、工藤艦長は、前甲板に英海軍士官全員を集めて、英語でこう訓辞したといいます。

「貴官らはよく戦った。
貴官らは本日、日本帝国海軍のゲストである。」


そして艦載の食料の殆どを供出して歓待してくれた。

フォール卿はこの艦長への恩が忘れられず、戦後、工藤俊作艦長の消息を捜し続けてきたそうです。

日本軍は、英国が誇る最新鋭の「不沈艦プリンス・オブ・ウェールズ」と戦艦「レパルス」を撃沈した際も、敵国の救助活動を一切妨害せず、それどころか、手を振ったり、親指をたてて、しっかりたのむぞ、という仕草を送ったりしてます。

さらに救助活動後に、この駆逐艦がシンガポールに帰港する際にも、日本軍は上空から視認していたが、一切攻撃をしていません。



フォール卿はこう回顧しています。

『駆逐艦の甲板上では大騒ぎが起こっていました。水平たちは舷側から縄梯子を次々と降ろし、微笑を浮かべ、白い防暑服とカーキ色の服を着けた小柄で褐色に日焼けした乗組員がわれわれを温かくみつめてくれていたのです。

艦に近づき、われわれは縄梯子を伝わってどうにか甲板に上がることができました。

われわれは油や汚物にまみれていましたが、水兵たちは我々を取り囲み、嫌がりもせず元気づけるように物珍しげに見守っていました。

それから木綿のウエスと、アルコールをもってきて我々の身体についた油を拭き取ってくれました。

しっかりと、しかも優しく、それは全く思いもよらなかったことだったのです。

友情あふれる歓迎でした。

私は緑色のシャツ、カーキ色の半ズボンと、運動靴が支給されました。

これが終わって、甲板中央の広い処に案内され、丁重に籐椅子を差し出され、熱いミルク、ビール、ビスケットの接待を受けました。

私は、まさに『奇跡』が起こったと思い、これは夢でないかと、自分の手を何度もつねったのです。

間もなく、救出された士官たちは、前甲板に集合を命じられました。

すると、キャプテン・シュンサク・クドウが、艦橋から降りてきてわれわれに端正な挙手の敬礼をしました。われわれも遅ればせながら答礼しました。

キャプテンは、流暢な英語でわれわれにこうスピーチされたのです。

You had fought bravely.

Now you are the guests of the Imperial Japanese Navy.

I respect the English Navy,but your government is foolish make war on Japan.

(諸官は勇敢に戦われた。今や諸官は、日本海軍の名誉あるゲストである。私は英国海軍を尊敬している。ところが、今回、貴国政府が日本に戦争をしかけたことは愚かなことである)

フォール卿はさらに、目を潤ませて語る。

『雷』はその後も終日、海上に浮遊する生存者を捜し続け、たとえ遙か遠方に一人の生存者がいても、必ず艦を近づけ、停止し、乗組員総出で救助してくれました。』

そして、工藤艦長は敵将校たちに「雷」の士官室の使用を許可しています。

救助された英兵たちは、停泊中のオランダの病院船「オプテンノート」に引き渡されます。

「雷」は、その後1944年4月13日にグアム島西で米潜水艦「ハーダー」(USS Harder, SS-257)の雷撃を受け沈没しました。
乗員は全員戦死しています。

工藤艦長は、1942年に「雷」艦長の任を解かれたのち、終戦まで生き残り、1979年に胃癌の為、死去しています。

この上記の事実は家族にも話していませんでした。

フォール卿は、人生の締めくくりと来日して、工藤氏の墓参と家族への感謝の気持を伝えたかったようだが、工藤艦長は家族にも話していなかった為、工藤艦長の家族や墓を探すことが出来ず日本を去っています。

その際に工藤艦長の遺族と墓を探す様に依頼された人によって、「雷」の乗組員の内2名が存命であることが分かり、その時の様子が事細かに世に知られることになりました。

しかし、フォール卿が何度も工藤艦長の功績を公けにしながら、日本のマスコミは一度も取り上げることがありませんでした。

産経新聞だけがこれを2005年9月に紹介しているだけである。

工藤艦長の救出劇は、世界の歴史の中でも稀な出来事だったが、マスコミはわざとこれを取り上げなかったのは残念である。


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